どうも!土谷ヒロです。
室町幕府とは足利尊氏が始めた武家政権ですが、その中でも6代将軍足利義教にスポットを当てます。
足利将軍は、初代の足利尊氏はもちろん、金閣寺で有名な3代将軍足利義満、銀閣寺で有名な8代将軍足利義政が有名ですが、6代将軍足利義教とは、どんなことを行ったのかなど気になったので深堀していきます。
足利義教とは
足利義教(1394年〜1441年)は、室町幕府の6代将軍で(1428年〜1441年)在位の約13年間将軍職を勤めています。
あまり知られていませんが、3代将軍足利義満(1358年〜1408年)の子です。母は側室の藤原慶子で、4代将軍足利義持(1386年〜1428年)は兄にあたります。
その③義満の子供の4人(④義持以外の弟⑥義教ら)は継承争いが起こらないように、幼少から仏門に入れられました。
⑥義教は25歳のときには天台座主いわゆる比叡山延暦寺の住職を務め、将来を期待されていました。(僧侶時代は義円と名乗ります)
将軍就任
5代将軍足利義量(1407年〜1425年)が亡くなると、その父の④足利義持が政治を行っていましたが、その④義持が亡くなる時に次期将軍を指名しなかったので、「くじ引き」で将軍が選ばれることになりました。
仏門に下った4人の兄弟の中から「くじを引いて決める」ことになり、見事⑥義教が「くじを引き当てること」になります。
「くじ引き」で決められたので、「くじ将軍」とも、または僧侶から将軍になったので、「還俗将軍」とも言われています。
⑥義教は幼少のころから出家しており無位無官だったので、髪が生えるのを待ち元服して官位が与えられることになります。
義教の恐怖政治は強欲な性格から来ているのか?
義教は「くじ引き将軍」と言われ、「くじで当たっただけの将軍」と馬鹿にされるのが嫌で、強欲で残忍な恐怖政治を取ったと言われています。
もともと強欲な性分があったとは思いますが…
義教は、あまりいい話はないみたいですが、どんな政治を行ってきたのでしょうか見ていきます。
恐怖政治の中身
義教は全ての決定権を自分に集中させていました。
足利幕府の権力の集中をはかり、独裁的な政治と、貿易の活発化で経済も強固にしてきました。
独裁的な政治が色濃く些細なことでも処罰や処刑の対象にしたりして、のちのち悪御所・万人恐怖と言われるようになります。
比叡山延暦寺のトップにも上り詰めた人なので、もちろん頭は良かったでしょうし、日本のトップに君臨する気質はあったのでしょう。
弱まりつつあった足利幕府を立て直すために、あえて万人恐怖と呼ばれるほどの強欲な恐怖政治を執ったとも言われています。
それがエスカレートして、誰も逆らうことが出来ない恐怖政治が始まっていきます。
義教と織田信長の共通点
延暦寺の焼き討ちを行った事実を見ると、義教と信長の性格は似ていると言われていますが、他にはどんな共通点があったのでしょうか見てみましょう。
・義教は「くじで選ばれた将軍」ということで「くじ将軍」と言われていたが「神に選ばれた者」として自分を神格化していた。
(信長は神や仏を否定し、自分を神格化していた。)
・義教は幕府を最高権力にするためなら、邪魔なものには容赦しなかった。恐怖の象徴になっていた。
(信長も天下統一を完結させるために、あらゆる手段を使った。泣かぬなら殺してしまえホトトギスでも有名な信長を表す俳句。)
・義教の最後は部下に暗殺されることになる。
(信長も同様に本能寺の変で家臣明智光秀に暗殺されている。)
織田信長は足利義教をロールモデルにしたのではないかとも言われています。
延暦寺焼き討ちは義教の有能さが行き過ぎて起こった
比叡山延暦寺の焼き討ちは全部で3回行われています。
織田信長が行ったことは有名ですが、1番初めに焼き討ちを行ったのは義教でした。
延暦寺の住職まで上り詰めた義教がなぜ?
比叡山延暦寺の焼き討ち
当時、延暦寺は朝廷からも幕府からも独立している存在でした。
延暦寺が「幕府を脅かす権力を持ち始めている」という噂が流れた頃から、義教はある行動に出ようとします。
義教は10歳になる前から延暦寺でつとめ始め、将軍に就任する直前の30歳半ばまで、僧侶として延暦寺のトップの座に就いていました。
なので義教は、延暦寺の僧たちの質の低下から、拝金主義、宗教的墜落、過激化する僧兵などの実態を正確に把握しており、それが延暦寺への弾圧につながったとも言われています。
天台座主としてトップに君臨し、義教が有能だから判断できたことなのです。
武力で制圧した義教ですが、結果的に延暦寺の武装化が強化され2度3度と延暦寺の焼き討ちが行われることになってしまいます。
足利義教の暗殺
恐怖政治を行った結果が、嘉吉の乱を招き義教は部下の赤松満祐に暗殺されることになります。
初めは2人の関係は良好でしたが、幕府の最長老になった赤松は義教に避けられるようになります。
赤松の弟の領地没収や、嫌われて対立した者は次々と粛清される事件が起こり、次は自分の番かもと疑心暗鬼になり犯行に及んだと言われています。
赤松は義教を祝宴に招き、暗殺したのですが、一緒に招かれた部下たちは、ほとんど逃げてしまったのです。
きっと赤松に賛同した者もいたのでしょうね。
暗殺されてしまった義教ですが、この恐怖政治は信長よりも全然酷いものだったことが想像つきます。
まとめ
今回は、比較的マイナーな6代将軍足利義教を取り上げましたが、いかがだったでしょうか?
義教の生い立ちから人生を振り返ると、かなり激動の生涯だったのではないでしょうか。
延暦寺のトップ(住職)から幕府の将軍になり暗殺されるなんて中々のエピソードですよ!
なのにあまり注目されないのは、恐怖政治という世間の悪いイメージがそうさせているのかもしれませんね。
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