松永久秀の性格は悪人?クリスマス休戦をしたエピソードについても | パパママハック
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松永久秀の性格は悪人?クリスマス休戦をしたエピソードについても

雑記

どうも!土谷ヒロです。

戦国武将の松永久秀は斎藤道三・宇喜多直家と並んで、日本の戦国時代の三大梟雄とも言われています。梟雄は「下克上などして謀反癖のある人物」

なかなか癖のある人物のようです。悪人だった・クリスマス休戦をした・茶道具と共に爆死した・エッチマニュアルの作成など、なかには戦国武将らしからぬ、面白いエピソードがあったので深堀していきます。

 

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松永久秀の性格は悪人なのか?

松永久秀は1508年〜1577年に活躍した戦国武将です。

出身についてや父母についても不明な点が多いのも久秀の魅力の1つだと思います。

歴史の表舞台に登場するのは、25歳か32歳の頃です。(この辺りもあいまいで謎な部分です。)

初めての主君の三好長慶に仕えることになります。
主君①三好長慶→②三好義継→③織田信長

最初は官僚として仕事をしていますが、後に武将としても活躍することになります。

三好長慶に、低い身分から重用される久秀ですが、名跡や家格を継承した履歴が無いのも特殊だったみたいです。
例として多くは(上杉家の家臣、直江兼続には家臣団など)(織田家の家臣、明智光秀には、名跡など)を継承させています。

簡単に久秀の経歴を見ていきます。

久秀の経歴

1549年、三好長慶が細川晴元、13代将軍足利義輝らを近江国に追放すると、京都を支配することになり、働きが評価され三好家の家臣団長になります。
後に弾正忠に任官し、「霜台」と名乗るのが50歳くらいのことだとも言われています。
別名「霜台」「松永弾正」とも言われています。

1560年、三好長慶に大和国の平定を命ぜられ、大和国を平定し信貴山城を居城とします。

1561年、朝廷から従四位下の位をもらいます。13代将軍足利義輝から「桐紋と塗輿」の使用を許されます。これは主君三好長慶と同等の待遇であり、幕府から三好長慶と拮抗する存在と位置づけれれていることになります。

一時期は将軍を追放するなど険悪なムードでありましたが、上へ取り立ててもらうための努力が伺えます。

1564年、三好長慶は息子の義興の死や弟の十河一存、三好実休の死などにより、心身とも体調を崩してしまい、精神に異常をきたして死去したと言われています。
久秀による暗殺説もある?)

三好長慶の弟の子供の三好義継が後を継ぐものの、三好家の実権は久秀や三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)が握ることになります。

1565年(永禄の変)足利義栄を傀儡将軍にして幕府の実権を握るべく、久秀の息子の松永久通や三好三人衆に二条御所の13代将軍足利義輝を急襲させ暗殺します。

この時期にキリシタン宣教師を追放します。その後、三好三人衆との権力争いが勃発します。

1567年(東大寺大仏殿の戦い)で三好三人衆に勝利するが、その時に、大仏殿が炎上してしまう。(ルイス・フロイスの供述によると三好方のキリシタンの放火だと主張している)

1568年、織田信長の上洛に協力し、畿内の三好勢を四国へ追いやります。
久秀は信長の家来になり、金ヶ崎の戦いや石山本願寺攻めに参加し活躍します。

1572年、15代将軍足利義昭を中心に信長包囲網が敷かれる中で武田信玄と連絡をとり、信長に反旗を翻すことになります。

1573年、上洛途上の武田信玄の死を受け、織田信長に降伏します。

1577年、(信貴山城の戦い)再び織田信長に反抗するが、織田信忠勢にを囲まれ自害します。

経歴を振り返ってみると、将軍を殺害したり、三好家の暗殺説があったり、主君を2度も裏切ったり、と久秀の行いは後世に天下の三悪事として語り継がれています。

天下の三悪事
・主君である三好家の乗っ取りと殺害に関与
・将軍足利義輝の殺害
・東大寺大仏殿の焼き討ち

不明な点も多いため、真実はわかりませんが、このような行いから悪人と言われる根拠になっているみたいです。

クリスマス休戦などの面白エピソード

久秀の経歴から振り返ってみると、謎な部分がかなり多く、将軍を殺害し主君を裏切るなど過激なエピソードが多いですが、その中でも面白エピソードをピックアップして紹介します。

クリスマス休戦

クリスマスに休戦とは久秀クリスマスが好きだったのでしょうか?

1566年の年末近くに、三好三人衆らと争っていた久秀は、クリスマスを理由に休戦をしたというエピソードがあります。

キリスト教の伝来は1549年なので1566年ともなれば西洋文化もそれなりに浸透していたことでしょう。

久秀は、この時期にはキリシタン宣教師を追放しているのですが、自分の部下たちや三好方のキリシタンの説得で休戦に応じたという説もあります。

このエピソードの元は、ルイス・フロイスの「フロイス日本史」によるものです。

記述に書いていたものを要約すると、「松永方と三好方の兵士のキリシタン約70人が仲良くパーティーを開いていた」という内容です。

この頃、久秀は三好方の攻防にあい敗走していて、逃亡中だったのではないかとも言われています。

敵味方でクリスマス休戦したのは事実かもしれませんが、クリスマスが好きだったかどうかは…キリシタンを追放してますしね…真実は分かりません。

爆死(茶釜と心中)

久秀は日本で初めて爆死した戦国武将とも言われています。

久秀は茶器のコレクターとして有名だったのですが、信長に反逆して敗れたので、信長が欲しがっていた名器「古天明平蜘蛛」を差し出せば許すと言われますが、「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようと思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と辞世の句を残し、茶釜と心中することになるのです。

かなり強情な性格のようだったみたいです。

エッチマニュアルを作成

久秀は67歳で自害するまで、生涯現役だったとも言われています。

戦国時代の名医「曲直瀬道三」の性技指南書「黄素妙論」から、久秀が考案したエッチマニュアルを生涯守ってきたと考えられています。

その「黄素妙論」には「女子が交わりたいという欲求が起きていないならば、男子は行為に及んではいけない」などと書いてあり、具体的な手順や男女の状態や内容が書いてあります。

現代に通じるハウツー本といったかんじでしょうか。

久秀は、人間は、日々養生することで長生きすることが出来ると考えていたみたいです。

この頃の平均寿命って50歳くらいなのになんてタフな老人なんだ。

三悪事を行い、クリスマス休戦・茶釜と爆死・エッチマニュアルの作成とネタには困らない武将ですね。

久秀に対する評価

久秀に対する評価はさまざまだと思いますが、この2人はどう見ていたのでしょうか。

織田信長

信長は家臣に対して厳しい人物と言われていますが、久秀への対応は甘く2度の反逆を許します。3度目の反逆でも茶釜と引き換えに許してやると考えていたので、信長が一目置く武将であったとも考えられています。

茶人としても知られていて信長はもちろん、文化人としても幅広く交流があったみたいです。信長とは濃いお茶仲間でした。

ルイス・フロイス

フロイスの「日本史」によると、久秀は「天下の最高権力を我が手にし思うように天下を支配し、畿内では彼が命令したこと以外に何事も行なわれないので、多くの部下が彼に仕えていた」と記しています。外国の人からみても優れた人物だったのですね。

信長やフロイスからの話からも、久秀は、「元気で博識があり政治能力や武力にも優れており、かなりの優秀な人物」だったことが伺えます。

まとめ

松永久秀は、悪人の1面もありましたし、上司や外部の人間からも評価が高い人物でした。それに加え、面白いエピソードが数多く有り、ネタには困らない武将の1人です。

どういった見方をすれば正しいのか分かりませんが、結局最後は自分の解釈次第になると思います。

戦国時代の武将の史実に関しては、やはり不詳なところが多く謎なところが多いですが、その武将を想像して自分の中で描いてみたり、それを自分なりに紐解いていくことが歴史に触れる魅力の1つだと考えています。

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